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宮城県大崎市鹿島台を発信中

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鹿島台神社の誕生と、明治末期の神社合祀政策について

By 鈴木 真由美, 公開日 2021-01-31T15:00:00.000Z

はじめに

 私の奉務神社である鹿島台神社は、今より1200年の昔、旧鹿島神社が鎮座していたところであり、当時小 田郡の四座の中の一社でありました。その旧鹿島神社を含めた十四社が明治42年に合祀され、鹿島台神社が誕生しました。この十四社の合祀がどのような理由で行われたのか、またその時の村民の思いなどをまとめました。神社合祀は主に明治末期、政府により推進された政策でありました。そこで今回は、宮城県内の明治末期の神社合祀政策についても触れました。最後までお読みいただければ幸いです。

 

現在の鹿島台神社

  ○鎮座地 宮城県大崎市鹿島台広長字鹿島12

  ○御祭神 建御雷命(二柱) 応神天皇(三柱) 大己貴命

       健御名方命 宇迦之御魂命(二柱) 伊邪那岐命

       伊邪那美命 火産霊命 安閑天皇(二柱)須佐之男命

  

        ○祭儀  歳旦祭 1月1日

       どんと祭 1月14日

       春季大祭 4月10日

       秋季大祭 11月10日

       神輿渡御 11月11日

  ○境内社 稲荷社 愛宕社

 

 

 

十四社合祀の経緯 

 大崎市鹿島台の前身である「鹿島台村」は、明治22年4月1日木間塚・平渡・広長・深谷・大迫・船越の六 ヶ村が合併して誕生しました。明治42年3月13日第5代村長に就任した鎌田三之助氏は、貧乏のどん底にあった村の立て直しのため、⑴学校の統合、⑵神社の合祀、⑶部落有財産の統一 という三大構想の実現を断行しました。現在の鹿島台神社は、当時六ヶ村内に鎮座していた十四社を合祀したものであり、旧鹿島神社境内に合祀せられて鹿島台神社と改称されました。御神体は、船越の旧出雲神社の宝玉や、旧八幡神社の御神体、その他合祀神社の御神体が祀られています。

 本殿には船越の旧出雲神社、拝殿には旧諏訪神社のものをそれぞれ移築して用いていましたが、拝殿は大正15年10月に改築されました。また本殿の屋根も茅葺でしたが、しだいに腐朽し尊厳さを欠くようになったので、昭和8年11月に銅板に葺き替えられました。その費用の寄進をした方々は、氏子はもちろん、県内の各郡より、また遠くは岩手県の崇敬者であったといわれています。現在の拝殿は平成8年に新築されました。

 また本殿の屋根は銅板に葺き替えられましたが、その他は合祀前そのままの美しい建築物となっております。お詣りの際は、是非社殿裏まで回りご覧ください。

 

 

 

 

合祀前の十四社について

 

  合祀前の十四社は次の通りです。(社名・御祭神・所在地の順に記す)

     ①出雲神社(牛頭天王社)・須佐之男命・船越   ②黄金神社・応神天皇・木間塚   ③諏訪神社・建御名方命・木間塚

     ④小嶋田神社・大己貴命・木間塚   ⑤愛宕神社・伊邪那美命 火産霊命・木間塚   ⑥御嶽神社・安閑天皇・木間塚

     ⑦小堤神社・宇迦之御魂命・木間塚   ⑧御嶽神社・安閑天皇・平渡   ⑨八幡神社・応神天皇・平渡

     ⑩品川神社・伊邪那岐命・平渡   ⑪鹿島神社・建御雷命・広長   ⑫八幡神社・応神天皇・広長

     ⑬鹿島神社・建御雷命・深谷   ⑭富神社・宇迦之御魂命・大迫

  十四社は明治42年11月10日に合祀しました。

  下図は、当時の十四社配置図になります。

 

 

 

 以上十四社のうち、安永4年(1775)7月に書き上げられた風土記御用書出に七社について記されています。そのうちの⑪鹿島神社について書き出すことにいたします。

 ⑪鹿島神社は、現在の鹿島台神社の地にあたります。

 

   鹿嶋社

    小名鹿嶋台、社地竪五間、横十六間、社東向一間作、拝殿南向竪三間、

    横二間、鳥居東向、地主田畑屋敷助内、別当金剛院、祭日九月九日

 

 また、①出雲神社は「天王さま」として親しまれており、出雲神社若しくは牛頭天王社が社名といわれています。御祭神は須佐之男命であり、伝えいうところによると、源頼義が東夷征伐の際、船越の  里に野営したとき、出雲の国の大社は武勇の神様なので、切りとった牛の頭を供物として遥かに大社を拝み戦勝を祈りました。その後帰京の節、鎌倉権五郎景政に命じ宝玉を納め一社を勧請し、出雲大社の御分霊を奉祀しました。

 更に、⑦小堤神社は古来「蚕神」として名高く、遠近を問わず養蚕家の崇敬者が多く、合祀後も春秋の祭日には沢山の参拝者が訪れました。崇敬者に対する霊験として、養蚕家の養蚕部屋の床板の上や蚕具の上に蛇のお姿が現れるという霊験あらたかな出来事も言い伝えられています。

 

 

合祀に関する村長、村民の思い

 

 鎌田三之助村長は、就任翌日より村民毎戸一人ひとりを集めて、各地域に祀ってある神社を村の中央部の一社に合祀することの肝要さを説きました。

 当時各地域にあった神社はみすぼらしいものが多く、神殿の屋根が壊れても修理する人もなく、戸板が外れても一向に見向きもしない、お祭りをしては酒を飲んだり食べたりする口実になっているだけのものでした。加えて放浪者の泊り宿や賭博場になるなど、全く神社の尊厳が地に堕ちている神社もありました。

 神を敬う気持ちが厚い村長は、神社の尊厳を保って村民の信仰心を深く涵養し、かつここに胚胎した部落根性を絶滅しようとの深慮から、1か所に各社を合祀して神主をつけ、朝夕祝詞を奏上して村民の敬神の中心を明らかにしたいと説明しました。しかし、いざ神社を合祀するとなるや、あちこちから反対の声がおこり、その急先鋒は女性たちでした。

 「あの鎮守様は父親の病気を治してくれた神様だから」とか、

 「この氏神様から出征の時、弾丸除け、病気除けのお守りを頂戴した。本当によくお守りくださって、無事に帰していただいた御神徳のある神社だから、いつまでもこの地域に祀ってください」との声が上がりました。涙に訴える反対には村長も大変困り、村民を説得するのは並大抵のことではありませんでした。

 また、合祀するには内務大臣の認可を得なければならず、合祀した神社の名前をどうするかという難しい問題が突発しました。村民はそれぞれの集落の神社の名前にするように主張しましたが、村長は十分考慮の上内務省神社局に諮り、村の名前をとって「鹿島台神社」と称することに認可を得ました。

 その後は合祀した神社でお祭りはもちろんのこと、善行者、功労者への表彰式も行い、村民の精神にも非常に良い影響を与え、永い間の部落同士の対立を弱めることにも成功し、神社の尊厳も保たれました。

 祭日は毎年4月10日に春季大祭、11月10日に秋季大祭、11日に神輿渡御が斎行されています。両大祭の日からそれぞれ3日間、街を挙げて春と秋の「互市」が開かれております。「互市」は、鎌田三之助村長が村内神社の合祀祭典を機会に、明治43年より春秋2回の祭日に合わせて、鹿島台神社参道入り口から鹿島台駅に至る間の平渡・鹿島台駅前までを互市場としたことに始まります。その後、交通規制により現在の裏町にその場を移しました。

   

 

 

 

 

明治末期の神社合祀政策について

 

 ここからは神社合祀政策について書きたいと思います。

 鹿島台のそれぞれの地域に鎮座していた十四社がなぜ合祀されたのでしょうか。

 神社の廃合は、明治初期では体裁において神社に値しないものを整備することに置かれたり、末期では神社の維持確立に置かれるなど、一貫して遂行された政策であったと考えられます。保存されている資料や文書、これまでの研究論文によると、明治末期に行われた神社廃合の程度が、宮城県は全国的に見てもかなり高いことがわかります。

 明治39年、内務省神社局は神社合祀に関する勅令220号を発令。その後県訓令(後に触れる)が出された明治41年から43年にかけて、宮城県では合祀及び廃社のピークを迎えますが、それ以前の明治36年12月に「社寺ノ寄付金募集ノ義ニ付内規」が定められ、その第四項に

村社、無各社又ハ寺院仏堂等ニシテ建物狭少社寺タルノ体裁ヲ具備セサルモノ及氏子檀信徒少数ニシテ総テ寄付金ヲ仰クニ非レハ到底維持難立ト認ムルモノハ祭典費ヲ除ク外ハ断然許可セス合祀又ハ合併ヲ勧誘スル事

という形で合祀あるいは合併が打ち出されていました。この内規は実際に施行され、鹿島台神社と同じ郡内であった下伊場野村の熊野神社、稲荷神社、神明社、新山神社、金井神社および山神社(いずれも無各社)が、翌年1月に村社八幡神社への合祀を願い出て、許可されています。

 明治41年県訓令甲第三九号によって、神社の合祀および神社の維持方法確立が本格的に進められました。この県訓令は、

 

    第一条 県社以下各神社ハ其ノ基礎ヲ鞏固ニシ永遠ニ奉祀スル為本規                     

        程ニ依リ維持方法ヲ定ムヘシ

    第二条 (維持方法二種)

     一、基本財産蓄積方法(基礎財産ヨリ生スル収入ヲ以テ維持費ニ充テントスルモノ)

     二、社費支弁方法(氏子信徒ノ醵出及其他ノ収入金ヲ以テ維持費ニ充テントスルモノ)

    第三条 基本財産ハ其ノ財産ヨリ毎年度左ノ収入ヲ得ルヲ以テ標準ト為スヘシ

        県社 金百五拾円以上  郷社 金百弐拾円以上

        村社 金百円以上    無各社 金五拾円以上

 というものでありました。

 

 では実際に宮城県の神社合祀の進行状況を見ていきましょう。

 表1は年次別進行状況一覧で、表2は市郡別に示したものです。県訓令の出された明治41年から件数が急増し、その翌年との2年間で合祀及び廃社全体の66%に達し、明治43年までには全体の86%に及びました。この廃合を進めたのは、各地域の人々がそれぞれ協議を重ね決定されたものであり、正に鹿島台神社の十四社合祀もこの時期であります。表2の郡別存置率も地域によって差があり、これは例えば海湾ごとに孤立的に集落を形成している地理的な立地の条件に左右されたり、凶作による移住や疲弊のため合祀を余儀なくされた集落、また各地域によっての神社廃合に対する意識の相違など、合祀政策の遂行過程には様々な要因が作用したと考えられます。

 神社の廃合は大正年間に入ってもわずかながらも続けられていくのですが、大正元年までの結果を全国的にみると表3のようになり、宮城県の神社数の減少率はかなり上位に位置します。東北地方では、村社の減少率は1位を占め、無格社では秋田の次に続きます。しかし合祀届を出しても実際には神社をそのままにしておいて、場合によっては今まで通り祭祀を営んでいたというケースもあったようです。

 

 

 

 

 次に合祀政策とともに実施された神社維持方法に着目してみます。

 神社の維持方法の確立に関しては、寄付が社費支弁の方法としてだけでなく、基本財産の形成方法としても多くの神社で行われましたが、財界の有力者を氏子にもつ仙台の神社などは、少数の氏子の寄付金によって多額の基本財産が形成され、寄付は有力な方法でありました。しかし、寄付を一定の氏子に限定することは、氏子内での社会的格差を生むことにつながりました。実際、そのような有力者のほとんどが神社の氏子総代となり、信仰の代表者としてよりも、神社の財産形成や管理者としての役割を担わざるを得なくなっていくのが実情でした。

 一方、そのような氏子からの寄付に恵まれない地域の場合、氏子全戸が何らかの形で負担しあう他になく、余裕のない生活を一層苦しめたものと考えられます。故に、その負担を軽減しようとすれば、氏子の数を増やし、信仰地域の拡大が必要となっていきます。これは合祀を中心とする神社の整理統合が急がれた要因のひとつでもありました。特に集落の立地条件が合祀を許さず、しかも他の氏子の負担を軽減することの出来るような有力者が存在しない地域では、規定通りの神社の維持方法の確立は大変困難な問題でありました。

 宮城県では大正15年の段階において、県社、郷社、村社、無格社合わせて計1,311社のうち、153社が確立の認可を見たに過ぎず、全体の11.7%に止まるという困難なものでありました。

 神社合祀政策そのものをめぐって、宮城県では大きな抵抗や大規模な紛争が起こったという形跡はみられませんでした。「河北新報」の報道によれば、内務省の姿勢が「地方民和合」の見地から極めて慎重な対応であったこと、また宮城県当局が他県に配慮し積極策を控え、このような対応の仕方がそうした結果を生んだものと考えられます。

 しかし中には、合祀された神社に対する断ち難い信仰の思いが正式に復祀(合祀された御祭神を戻し、再建すること)をみた例もありました。桃生郡鷹来村(現東松島市)の元無格社五十鈴神社の場合、大正6年7月「合祀神社復旧願」を出し、その理由を

 本社ハ古来本村字五味倉区ノ産神トシテ尊崇シ来リタル神社ニ有之

 候処明治四十二年神社廃合整理御推奨ノ際維持方法確立シ得サリシヲ

 以テ巳ムヲ得ス合祀出願御許可ヲ得候共之レ氏子一般ノ本意ニ無之全ク

 意志ニ反シタル出願ニ有之事実今日ニ至ルモ合併ヲ実行シタルモノニ

 アラス依然トシテ神社ヲ其儘存置シ日夕崇拝シアル次第ニ有之名実伴ワ

 サル儀ニ付キ之レカ復旧ヲ出願シタル次第ニ有之候

合祀を急ぐ余り、民意を充分に尊重することが出来なかった政策の裏側を物語る記録であります。

 

 

まとめ

 鹿島台地域では、合祀された十四社のうち、旧出雲神社、旧諏訪神社が合祀後も地域の方々がその地を大切にされ、有志の方々で新しくお宮や祠を建立されるなど、今でも地域の皆さんの心の拠り所になっております。

 

 

    今回この記事を執筆するにあたり、当時の鹿島台村の様子、村民の思いなどに触れ、改めてその時代を生きた人々の苦労や努力を知り、それらをしっかりと受け継ぎ、機会がある毎に地域の皆さんにお伝えできるように更に学んでいきたいと心新たに致しました。

 神社は宗教ではなく「国家ノ崇祀」と位置付けた明治政府の国家原則に従って進められた神社合祀は、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで、一定基準の設備・財産を備えさせ、神社の威厳の保持と経営の継続を確立させることが目的でありました。さらに地方自治体から府県社以下神社に公費の供進を実現させるよう、財政が負担できるまでに神社の数を減らすことにもありました。

 合祀によって氏神様が居住地から遠くなり、氏子の参拝が困難になってしまったり、合祀を拒んだが強制的に行われたことにより起こった合祀政策に対する反対運動や、合祀された神社の復祀についても今回の調べでわかることができました。しかしながらなかなかその時代の詳しい記録が残っておらず、はっきりとした調査結果を得られない部分も多々ありました。これに関してはこれからの課題としていきたいと思います。

 

 『参考文献』

      ・鹿嶋臺神社由緒書    ・鹿島台町史・宮城縣史二十五 風土記      

    ・町史わが鹿島台      ・鎌田三之助翁傳口語文復刻版     

    ・宮城県社寺公文書(宮城県図書館所蔵)

    ・祭りの法社会学 千葉正士 弘文堂   

    ・宮城県における神社統合政策の展開 山本悠二

    ・東北大学日本文化研究所 明治期における神社政策の経緯と影響 華園聰麿

    ・宮城県神社明細表(宮城県図書館所蔵)

 

 

鹿島台神社のこれから

 

 さて、ここからは現在の鹿島台神社について書いてみようと思います。

 令和元年11月10日に、当神社は合祀110年を迎えました。地域の皆様に支えられ、そして遠方からも多くの参拝者様がいらっしゃいます。

 しかし、実のところつい1年半ほど前までは参拝者も少なく、少し寂しい様相を呈していました。そんな時私は、神社をまもり、氏子の皆さんの安寧・繁栄・健康をご祈念し、日々の御奉仕を大切にすることは神職として言うまでもなく当然のこと・・しかし新しい令和の時代が幕を開け、これから少しでも多くの皆様にここに鹿島台神社があるということを知っていただきたい・・と考えるようになりました。そこで合祀110年を記念し、御祭神でもありますイザナギノミコトとイザナミノミコトにご登場いただき、神社オリジナルの祈願絵馬「ナギーとナミー」、そして十四社合祀ににご尽力下さいました鎌田三之助翁をデザインした「わらじ絵馬」を製作致しました。同時に月毎の限定御朱印をスタートしました。今までなかった神社のホームページも作り、御朱印を通して遙拝頂けるように、遠方にお住いの方のために御朱印の郵送も始めました。今から1年半前は、御朱印を求めて参拝される方は月に多くて5名ほどでしたが、各メディアで御朱印や祈願絵馬を皆様に知っていただける機会に恵まれ、現在では毎月200~300体の御朱印を頒布させていただくようになりました。

 また新型コロナウイルス感染予防対策として手水の使用を控えているため、その僅かなスペースに花を飾り、花手水を楽しんで頂けるように致しました。最近では花手水を撮影したくて来たという方もいらっしゃるようになりました。

  これからも、参拝に来て下さった皆様が少しでも癒されますように、また楽しんで頂けるように出来る範囲での工夫を凝らしていきたいと思います。

 

 御成敗式目にこのような言葉が掲げられています。

 「神は人の敬によりて威を増し 人は神の徳によりて運を添う」

 神は人から敬われて御威光を増し、人は神を敬うことによってより良い運を与えられ、幸せになる。といった意味で、私はこの言葉に出会ったとき深く感銘を受けました。これからも鹿島台神社の大神様の御神威が益々高まりますように、先ずは神事を第一に、そして氏子の皆様はもちろんのこと、遠方から参拝に来られる方々に神様のご加護があります様に、日々の御奉仕を大切にして参りたいと思います。

そして神社を通して、地域の皆様とともに鹿島台の活性化のお手伝いが出来ればと願っています。

お近くにお越しの際は是非ご参拝ください。